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プロフィール

料理研究家 宮成 なみ

福岡県・田川市生まれの料理研究家。

A型・さそり座 1976年11月3日生まれ。

 現代の医学では治すことのできない難病「結節性動脈多発炎」を16歳で発症。発症から5年以内に8割の患者が亡くなることから、20歳まで生きることは難しく、社会復帰断念を宣告されたが、主治医の「唯一進行を遅らせる方法は食事療法です。投薬と食事で頑張ってみませんか?」の言葉に希望を託し、7年半の闘病生活の末社会復帰を果たす。

 
​ 食の素晴らしさに感銘を受け、10年越しの夢を叶えて27歳料理研究家となる。宣告された寿命をはるかに超えて、今年44歳となる。現在、週3回×6時間の透析を受けながら、商品開発、製品改良、販売促進など、食の企画事業を行う。自身の経験より、体力、時間、お金をかけずに美味しさと健康を両立させるレシピが得意としている。

 

 趣味はサウナ。サ活とサ飯は現代版の湯治と食養生だと時間の合間を縫って週2ペースでサウナに通っている。

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作り手と使い手のギャップを

埋める食の知財専門家

楽しい食卓株式会社代表取締役 

 ∟特許庁 知財支援窓口 食の知財専門家
 ∟中小企業庁 ミラサポ 食の専門家
 ∟農林水産省 国産農産物消費拡大事業
  地産地消コーディネーター派遣事業 専門家
 ∟福岡県6次産業化推進事業 審査委員会 審査委員

おいたち

「美味しいごはんを作るには、4つのコツがあるとばい。

お金をかけるか、時間をかけるか、手間をかけるか、知恵をかけるか。

どれかひとつをかけたらいいと。

 

お金がなくても美味しいご飯は作れるように、

あんたに体力がなくても、素敵な人生は作れるよ。

ごはんと一緒。自分の手で作っていけるよ」

台所で学んだのは、ごはんの作り方だけではありませんでした。

祖母や母がしてくれたことを

今度は私がする人になりたい。

台所には素敵な人生を生きる知恵がいっぱい詰まってる。

そんな想いから、料理研究家になりたいなって思いました。

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空一面に咲き誇る桜の花が好きでした。

 

晩秋の木枯らしに桜は丸裸にされるけれど、

寒い冬を乗り越えて美しい花を開かせる桜の花が大好きでした。

 

結節性動脈周囲炎

 

これが私の病名です。

 

 

 

16歳の誕生日を迎えてすぐあと、私は健康を失いました。

 

「現代の医学ではあなたの病気を治すことはできません。

社会復帰は無理かと思われます。」

 

お医者さんは続けていいました。

 

「現代の医学では治すことはできませんが、

唯一、進行を遅らせる方法があります。それが食事療法です」

 

このまま、白い病棟で一生を終えるのか、

 

本当に小さな希望でしかないけれど、食と言う可能性にかけてみるのか。

 

16歳で人生の選択に迫られました。

 

選択の余地なんてありませんでした。

 

 

 

1年弱の入院生活を終え、退院した私は高校を留年していました。

 

164cmの身長に、体重は40kgを切っていて、

普通に座っていることができなくて、

あたりまえに生活をすることができなくなっていました。

 

腎性貧血も進んでいて、立ちくらみや

めまいがするたび体をぶつけ、

足にはいくつもの青あざができていました。

 

1時間座っていることができない私は、

学校に行っても授業中倒れることもしょっちゅう。

 

年下の子達と通う高校生活も、

クラスメートに迷惑をかけてしまうことも

心苦しくて居場所のなさを感じていました。

 

それでも母は私に「高校に行きなさい」と言いました。

 

 

 

私の通う高校は、家から歩いて10分くらいのところにあり、

桜並木の続く坂道をくだったところにありました。

 

学校に行こうとかばんを持って家をでるのだけれど、

学校にいくのが辛くって、よく桜並木の坂道を

登った先にある公園でサボっていました。

なんでこんなことになっちゃったんだろう。

 

どうして私だけ病気にならなきゃいけないの?

思い通りに動かない体。

 

見えない未来に不安になって怯える日々。

今まで、平凡な女子高生だった自分がいやだった。

なんの変哲もないとりえもない、そんな自分がいやだった。

 

だけど、普通の女子高生だった私は、

元気に走り回ることのできていた私は、

どんなにすばらしかったことだろう。

 

どんなに後悔してもしきれなくて、

あのころの自分に戻りたくても戻れなくて、

その頃の私の夢は、

 

「普通の女子高生になること」

ただそれだけでした。

 

普通の恋がしたい。

 

普通に学校にいきたい。

 

普通に生活できるようになりたい。

 

それさえも手の届かない遠い夢のようでした。

 

お医者さんは社会復帰できないと言っているのに、

学校に行けと鬼のような形相をして

家から追い出す母のことを思うと、

母のことさえ信じられなくなることもありました。

 

 

だけど、家に帰るといつも、私のごはんがあって、

優しい笑顔があって、いつでも母は私の味方でした。

優しい笑顔は、小さいころからいつも同じものでした。

 

そんなとき、ふと思い出しました。

小さい頃のこと。

 

 

どうみても皮のほうが分厚いジャガイモを見て、

「上手、上手」と誉めてくれた母。

 

料理も最初は上手にはできなくて、

手を切ったり火傷をしたりすることもしょっちゅうでした。

 

 

 

けれど、母は何度も何度も

「最初から上手になんてできなくて当たり前。

続けていくことが大切なのよ」、

と積み重ねていくことの重要性を教えてくれました。

 

 

 

失敗しながら繰り返しているうちに、

少しずつ上手になって、

最後はおいしい料理ができるようになりました。

 

今は、生きることさえ上手にできないけれど、

積み重ねていけば、いつか上手になれるかも。

 

おいしい料理が作れるようになったみたいに、

人生だって自分で調理できるかも。

 

 

 

本当に私は、社会復帰できるかもしれない。

 

そんなふうに思えました。

 

 

夏が来れば桜は、照りつける陽射しを浴びて、

力強く雄々しく若葉を空一面に広げます。

 

 

 

晩秋の木枯らしに桜は丸裸にされるけれど、

寒い冬を乗り越えて春には必ず美しい花を

咲き誇らせる桜がとても大好きでした。

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私も桜のように咲き誇れるひとになりたい。

 

桜の木の下でひとしきり泣いたら気合を入れて、

かばんを持って学校に行きました。

 

きっと社会復帰できるはずって希望を持って。

「白い煮物が食べたい」~祖母との想い出・私の原点の話
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